副住職は2017年の春から夏にかけて、東北大学が主催している「臨床宗教師」の研修を受けてまいりました。そこで今回は臨床宗教師の社会的な役割についてご紹介させていただこうと思います。 日本版チャプレン「臨床宗教師」 皆さんは「チャプレン」という職業をご存知でしょうか。チャプレンとは主にアメリカなどのキリスト教文化圏において、病院などの公共の場で心のケアを提供するために専門実習を受けた宗教者のことです。日本では、緩和ケア病棟やホスピスに配属されている例はわずかです。一方、欧米では病院の他に福祉施設、教育機関、警察・消防署・軍隊・刑務所など様々な公共空間で、当たり前のようにして雇われている馴染み深い宗教者の専門職なのだそうです。 これまで日本においてはお寺・神社・教会などの宗教施設以外で宗教者が活動することはほとんどありませんでした。しかし近年、公共の場においても生死の問題と向き合う宗教者が求められるようになってきています。その要望に応えるべく生まれたのが、チャプレンの日本版ともいえる「臨床宗教師(苦悩・悲嘆・不安の現場に寄り添う活動をする宗教者)」です。
■東北大学主催「臨床宗教師研修」の様子 僧侶だけでなく様々な宗教者とともに学びを深める
臨床宗教師の主な特徴 臨床宗教師は公の場で活動するということもあり、一般的な宗教者の立場とは異なる点があります。主な特徴は次の通りです。
①布教伝道を目的としない(要望がある場合には適宜対応する) ②傾聴※を基本とする心のケア ③宗教間協力を前提とする ④信徒以外の相談にも応じる ⑤「臨床宗教師」の倫理綱領を遵守する
(※傾聴…相手の話をただ聞くのではなく、注意を払って、より深く、丁寧に耳を傾けること。自分の訊きたいことを訊くのではなく、相手が話したいこと、伝えたいことを、受容的・共感的な態度で真摯に聴くこと)
宗教者のホームグラウンドは基本的にはお寺や教会といった宗教施設です。そのため、そうではない公共の場において「宗教者が活動するとはどういうことなのか」「何を提供することができるのか」をより考慮した行動が求められます。 ①や②の特徴にはそれがよく表れています。例えば、お寺や教会であれば仏教やキリスト教の話をしても違和感はありませんが、病院や老人ホームですれば、教義・価値観の押し付けと思われても何ら不思議ではありません。場合よっては利用者のみならず、職場のスタッフにも混乱を招く恐れがあります。そのため、こちらから宗教に関する話を一方的に持ち出すことは厳禁なのです。ただし、全く宗教の話をしないというわけではなく、相手が宗教宗派に関する話を望み、その場の環境・人間関係などを考慮した上で問題がなければ応えます。 また、病院や福祉施設、被災地などではこちらが何かを教えるよりも、その人の気持ちに耳を傾けることが癒やしになる場合が多々あります。そのために必要なのが「傾聴」の姿勢です。傾聴とは、ただ話を聞くのではありません。全身全霊で相手の話したいこと、伝えたいことに向き合うことです。自分自身の存在が受けとめてもらえること、自分の気持ちを口に出して語ることが新たな気づきや癒やしに繋がります。 このように、その場の環境・人間関係に配慮し、宗教者としての特性を活かした心のケアを行うのが臨床宗教師であると言えます。一方で、①~⑤のような決まりごとがあると「宗教者としての意義が失われるのではないか」といった声もあります。とはいえ、公の場で皆が安全安心に過ごすためには最低限必要なことなのです。
■被災地の公営住宅で行なわれた傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」
具体的な一例をあげると、京都府では、自殺対策の一貫として臨床宗教師を活用した事業が2015年より始まっています。これは布教や勧誘をせず、宗教宗派の違いを超えて、悲嘆や苦悩に「傾聴」という姿勢で寄り添う宗教者だからです。特定の宗教団体が利することがないこと、政教分離の原則に抵触しないことから、安心して現場にいることができると判断されたのです。公の機関が宗教者を採用するというのは驚くべきことですが、これも①~⑤のような立場が明確にされているということが大きな要因であることは間違いありません。
科学によって解決しえない領域 では、なぜ宗教者が公共の場で求められるようになってきているのでしょうか。 これからの日本は超高齢多死社会をむかえると言われており、どのように生を全うし、死を迎えていくかが深刻な問題となっています。緩和医療、在宅医療、高齢者施設など「老病死」と密接した現場では様々な喪失体験の連続です。また、身体的な痛みを取り除くだけでは解決できないこと、―生きる意味や自分自身の存在そのものが問われるような問題とも向き合わなくてはなりません。すると、これまでの医療・福祉の専門職のみではケアをしきれない問題が出てきています。 「なぜ自分がこんな理不尽な目に合うのか」「何のために生きるのか」「死んだ後はどうなるのか」といった問いに向き合うときには、大きな不安や苦悩が伴います。しかし、それらの問いに対して科学的な答えを出すことはできません。科学的思考に支えられて生活している私たちにとって、独りで向き合うにはあまりにも難しい問題です。 そこで、生と死について日々考える立場である宗教者が現場に入れば、それらの問題に一緒に向き合うことができるのではないかと、医療・福祉の領域を中心に注目され始めているのです。
自分自身を受けとめてもらえる場所 つながりを感じることができる場所 私は現在、緩和ケア病棟、宗教者による傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」、在宅医療クリニックなどで臨床宗教師として活動する機会をいただいています。そこでお会いする方々の中には、ずっと誰にも話すことなく抱え込んできた思いを口にされる方も少なくありません。在宅医療の現場では部屋から一歩も出ることができず、医療・福祉関係者以外と話す機会が全くないという方もいます。また、傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」には毎回30~40人ほどの方が来店しますが、20代、30代の若い方もいらっしゃるので正直驚いています。
■「東京カフェ・デ・モンク」の様子
今日、全国的に、どこの地域であっても人と人との交流が少なくなっています。特に都市部ではそれが顕著です。厳念寺周辺にも次々とマンションが建っていますが、「お隣さん」や「ご近所さん」との交流は限られており、一人暮らしの人は老若男女問わず増え続けています。また、家族がいたとしても耐え難い苦悩を背負って生活している方も少なくありません。目に見えていないだけで、実際には孤独な思いを抱えている人はとても多いのではないでしょうか。 日々の生活を維持するのが精一杯で、人とのつながり、ぬくもりを感じることができる機会や、生と死の問題としっかりと向き合う時間を持てる人は極わずかです。そのような状況で、突然大切な人やものを喪失し、生と死の問題と向き合わなくてはならなくなったとしたら大変なことになります。 そのような中、臨床宗教師が求められた背景には、安心できること、存在を受けとめてもらえること、つながりを感じることができることが社会全体で求められてきているということなのかもしれません。
【菅原耀 記】